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【アラベスク】  第11章 彼岸の空



第2節 夕闇の十字路 [8]




 コウを失うくらいなら、現実から目を背けても構わない。
 そんな自分にうんざりするツバサの肩を、コウはもう二度ほど軽く叩いた。
「そんな辛気臭い話はやめようぜ。それよりもさ、ツバサにお願いしたい事があるんだ」
 自分のだらしなさに呆れ果てながら、ツバサはようやくコウを見下ろした。





 カチャリと食器を置く音に、智論がふと顔を向ける。
「少しは落ち着いたかしら?」
 食べ残した食事へチラリと視線を向け、だがもっと食べろとすすめる事はしない。ただ弱々しく笑う。
「落ち着けるわけないか」
 窓と向かい合っていた身体を捻り、レースのカーテンから手を離し、ゆっくりとベッドへ近寄る。そうして、近くの椅子を引き寄せて傍らに座った。美鶴は、その一連の行動を黙って見ていた。
 微かに香りが漂った。
 窓から入り込む風に乗って控えめにその存在をみせる香りは、室内に淡く染み入るような、爽やかで少し苦くも感じる。香りを苦いと感じるなんておかしいとは思うが、美鶴には他に表現できる言葉を思い浮かべることができない。
 香水だな。この人には似合うと思う。
 ボーイッシュなワケではないのになんとなくサッパリとした印象を受ける。そんな智論には、甘ったるい香りよりもこのような爽やかさが似合うと、美鶴は思った。自分には全然似合わないのだろうけれど。
 入り込む陽射しは朗らかなのに、なぜだか物憂げにも感じる。暑くもなく寒くもなく、とても過ごしやすい環境なのに、春の陽射しとは違う。これから夏を迎える春と、これから冬を迎える秋。先に待ち受けているものが違うから、その表情も異なるのだろうか。人間の感情と同じように。
「慎二の何をどこまで見知ったのか、詳しくは知らないけれど」
 言葉を選びながら、慎重に、できるだけ美鶴の感情を刺激しないように気を遣ってくれているのがわかる。
「昨夜、慎二があなたに見せた姿が、本当の慎二の姿」
 その言葉に、美鶴は無意識に言葉を返す。
「本当の姿って?」
 智論が美鶴の顔を見る。その瞳には微かに哀れみが含まれているかのようで、美鶴が現実から逃避したがっているのだと思っているかのようで、美鶴は慌てて付け足した。
「私、霞流さんの本当の姿って言われても、それが何なのか、よくわからないんです」
 レースのカーテンがふわりと揺れる。
「そもそも、昨日自分が何を見たのか、正直よくわからなくって」
「美鶴ちゃん」
 智論は、親しみを込めて美鶴ちゃんと呼んだ。美鶴さんと呼ぶにはあまりに弱々しい。その瞳はぼんやりと虚ろで、まだ精神は不安定。頭も混乱しているだろう。
 だがその混乱は、時間が解決してくれるものではない。いくら考えても、自分で答えを導き出すことはできないだろう。誰かに問い、誰かがその問いに答えなければならない。何を問えばよいのかわからないのなら、それを誰かが導いてやらねばならない。
「じゃあ美鶴ちゃんは、慎二をどんな人間だと思う?」
「どんな人間」
 言われて美鶴は記憶を手繰(たぐ)った。
 初めて会ったのは駅舎で。正直、少し胡散臭いとも思った。だが、嫌悪感はなかった。駅舎の管理をお願いできないだろうかという慎二の依頼を、大した拒絶反応もなく受けてしまったのには自分でも驚きだった。
 二度目は火事の現場で。
「お久しぶりです」
 薄暗い外灯を背に受け、その柔らかな物腰と品の良さを辺りに振りまく彼の姿は、惨憺(さんたん)たる火事場において、そこだけがまるで異世界だった。
 頼るアテのない美鶴と母の詩織を、快く自宅へ招いてくれた。一晩を過ごし、翌朝早くに目が覚めた。二階の窓から見下ろせるのは広々とした庭。朝日を浴びて輝く新緑の景色の中に、慎二は祖父と佇んでいた。
 輝く朝日を受ける細身の身体は、力強い緑の中では儚い蜃気楼のような存在だった。だが、突然振り返った彼の瞳に、美鶴は思わず息を呑んだ。
 その瞳を、美鶴は今でも覚えている。
 彼との距離はかなりあったはずなのに、まるで目の前で見つめられているかのような錯覚を受けた。瞳の微かな動きまでもがすぐそばに存在する。そんな幻想のような体験だった。
 金持ちの男にロクなヤツはいない。そうに決まってるっ!
 慎二の柔らかな優しさと品の良さを見せ付けられるたび、美鶴は自分にそう言い聞かせた。京都でもそうだった。
 無理に無理に、自分を押し込めていた。
 そう、美鶴は自分を押し込めていた。自分の中にある、霞流慎二への溢れる想いを。なぜならば、もう二度と同じ過ちは繰り返したくなかったから。澤村優輝に恋をして無残に打ちのめされた時のような、あんな惨めな思いはしたくなかった。
 もう二度と騙されるものか。
 そう固く心に決めていたはずなのに、どうしてこんな事になってしまったのだろう。







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